21 かるかやの物語

 北石堂町の中央通り沿いに、長野市民から「かるかやさん」とか「かるかや堂」と呼ばれて親しまれている西光寺があります。正式には苅萱山西光寺、浄土宗の寺です。寺の縁起によれば、苅萱道心と子の石童丸が晩年に高野山より移り住んだ場所であるといいます。西光寺の本尊は親子地蔵です。境内には、苅萱と石堂丸の出会いの姿を刻んだ銅像や、苅萱、石堂丸、母千里御前の墓などがあります。
 苅萱上人と石童丸の悲話は、十七世紀のはじめころに善光寺の境内で、説経師によって語られた説経節です。昔の善光寺には、仏の功徳を参拝者に語り聞かせる説経師と呼ばれる人々がいました。彼らは境内にむしろを敷き、大きな唐傘を立てて、ささらを擦りながら節をつけて説経節を語ったといいます。
 「かるかや」の物語はそんな説経師たちによって語り継がれてきたものです。しかし、江戸時代になり、浄瑠璃が起こってくると説経節は徐々にすたれていきました。それでも「苅萱」「山椒大夫」「小栗判官」といったいくつかの物語は、つい最近まで多くの人が知っていました。しかし、現代では「苅萱」といい「小栗」といってもほとんどの人がそのあらすじさえ知らなくなっています。

 筑前の国の武士団の党首加藤左衛門重氏は、世の無常をはかなみ、身重の奥方を残して突然出家してしまいます。やがて奥方は男の子を出産し、石童丸と名付けられました。十三歳になった石童丸は、まだ見ぬ父恋しさに母や姉と共に高野山をたずねます。そこで石童丸は父苅萱道心と出会うのですが、父とは気づきません。苅萱は石童丸が我が子であることを直感するのですが、信心が鈍ることを恐れ、父であることを名乗らず、「そなたの父は死んだ」と石童丸に告げます。高野山から下り麓の村に帰ってみると、長旅の疲れからか母と姉は亡くなっていました。肉親を失った石童丸は、再び高野山に行き、苅萱の弟子となり三十四年間を共に過ごします。
 やがて苅萱は、善光寺如来のお告げで信州の善光寺へと行きます。残された石童丸は、ある日善光寺の方角に雲がたなびくのを見て、父苅萱の死を知るのです。石童丸は父の菩提を弔うために信州に下り、今の西光寺で親子地蔵を刻みながらその生涯を終えたということです。

 というのが、「苅萱」のあらすじです。このお話を聞いた時の第一印象は「すくわれないな」という思いでした。幼い子どもと身重の妻を置き去りにして家を出る父親、せっかく訪ねた子どもを「父は死んだ」といって追い返そうとする父親、そばにいながら死ぬまで親子の名乗りをあげない親子、現代の感覚からいうと何とも不幸続きで救われない物語だと思ったのです。しかし、これは中世の物語なのだ、当時の感覚からいえばこの世のことなのどうでもいいのだ、問題は死後の往生なのだという風に考えると親子とも往生できたのだからそれでいいのだということになるのでしょう。
 とまあ公式的に考えないで、もっと中世の民衆の感覚に沿って考えてみると、現世においてめでたしめでたしなどという状況はありえないのだという厳しい現実があるのに、ハッピーエンドの結末ではあまりにも嘘っぽすぎるのではないかというのです。せめてあの世では幸せになりたいという民衆の願いなのではないでしょうか。
 同じ説経節の「さんせう大夫」の物語では、姉を殺された厨子王がさんせう大夫に復讐する場面が残酷に語られます。これは多分絵本や森鴎外の小説では触れられなかった場面なのですが、さんせう大夫の息子に父親の首を竹ののこぎりで三日三晩にわたって挽かせるという刑を課しているのです。
 これもやはり民衆の立場からすれば、支配者であるさんせう大夫とは和解などはできない、復讐あるのみという心情のあらわれなのかもしれません。このような、ある意味で救いのない物語の設定というのは、説経節を担って諸国を漂流して歩いた説経師の境遇の反映なのだと解説する人もいますが、私はむしろ聞く側民衆の心情の反映なのではないのかと思います。
 お気楽な物語を語ったのでは民衆からそっぽを向かれる、かといって救いがなければ暗すぎる。結局は仏の力であの世で極楽往生するという救いの物語になったのではないでしょうか。この願望は聞く民衆よりさらに差別され過酷な状況にあった説経師たちの願望でもあったのでしょう。語るものと聞くものの心の共鳴が説経節という涙なしでは聞けない物語を完成させたのだと思います。
 蛇足ですが、同じ善光寺信仰をテーマにした謡曲の「柏崎」とか「土車」では最後は親子の名乗りをし幸せになったとしているのは、時代性の違いもありますが、聴衆の境遇の差なのかもしれません。
 説経節を担ったのはどんな人たちなのでしょうか。
 仏教の経典や教義を広めていく時、原典をそのまま読み上げてみてもなかなか民衆の間には伝わっていきませんが、たとえ話や因果応報の因縁話に仕立てることで、聴衆は興味深く耳を傾けるものです。
 諸国を廻って民衆の間に仏教を広めてあるいたのは、廻国聖、山伏、絵解法師、熊野比丘尼といった下級の宗教者たちだといわれています。説経節のようによりくだけた娯楽性の強いものになりますと、それを語ったのは宗教者ではありませんでした。荒木繁氏は説経節を語った人々を次のように規定しています。「説経節は元来物もらいのための芸、乞食芸であったのである。」(東洋文庫説経節」解説)
 私どもの子どもの頃も「物もらい」とか「乞食」といわれた人々はおりました。しかし、本来乞食とはただわけもなく物を乞い、もらって歩く人々ではなく宗教的な修行の一環として人の施しを受けるものであったり、何らかの芸を演じて、その代償としていくばくかの物や金をいただくというもので、決してさげすまれるようなことではなかったのです。しかし、当時の社会ではさげすまれていたようです。
 日本の芸能というのは、そんな社会的にはさげすまれてきた人々によって担われ、洗練され発展してきたという歴史があります。説経節のように長い年月の間に歴史の中に埋もれてしまった芸もありますが、歌舞伎、能あるいは落語といった伝統芸能とよばれるようになった芸能もあります。
 説経は、近世の初期には「さんせう大夫」「かるかや」「小栗判官」「信徳丸」「愛護若」といった深い物語性をもったものに大成していくわけですが、この芸は一人の天才によって完成したものではなく、無名の説教師たちの切磋琢磨と聴衆の情念を作品に反映していくということの積み重ねによりなったものでしょう。