川中島の戦い

第四回目の戦い 永禄四年 永禄四年八月、春日山を出発した上杉軍は十四日に海津城西南にある妻女山に陣を取った。山上からは海津城を望むことができる。 この知らせは十六日には甲府の信玄のもとに届いた。信玄は急ぎ出陣の支度をさせ、 十八日大軍を率いて…

海津城と山本勘介

「甲陽軍艦」では、天文二十二年の築城とされる海津城であるが、第四次の川中島の戦いを前につくられたとするのが妥当であろう。この頃になってようやく川中島平の多くが武田信玄の支配下になっているからだ。 城地はもともとが地元の豪族清野氏の屋敷であっ…

村上義清、上杉謙信に助けを求める

この戸石城の攻略を境に武田と村上の勢いは逆転した。天文二十二年四月六日、武田軍は村上義清の本拠である葛尾城(埴科郡坂城町)を攻めたが、義清は戦うことなく越後の上杉謙信を頼って落ち延びていった。 村上義清は、北信濃の豪族井上・須田・島津・栗田と…

信玄、上田原で敗れる

甲斐の武田信玄が信濃の南半分をほぼ制圧し、北信濃への侵攻をはじめたのは天文十七年(一五四八)のことであった。二月、信玄は上田原(上田市)に陣し、北信濃最強の武将村上義清に対した。 村上氏は、清和源氏の流れをくむ豪族で、千曲川左岸の村上郷(埴科郡…

海津城の築城

甲斐、武蔵、信濃の三国にまたがる甲武信ヶ岳に源を発する千曲川は、佐久、上田の平を流れて川中島平に入る。ここで北アルプスから流れてきた犀川と合流するのだが、その合流点の近く、千曲川の畔に松代の里はある。 戦国の武将武田信玄は、この三方を険しい…

烏の森風雲録 10

十 このお話は同時進行ではありませんのでまだバードサミットは開かれていないことになっていますが、ご存知のようにサミットはすでに終了しています。 総裁カラスはその成果を自分の手柄としてあちらこちらで話しているようです。総裁の演説に感動して、烏…

烏の森風雲録 9

九 山鳩上人と別れたカンタローは、寺の裏手の放生池までやってきました。一人になって考えてみたかったのです。ところがそこには先客がいました。赤色カラスが一心に羽を繕っていたのです。 「いやあ、気持ちいいよ。いっしょにどうだい」 赤色カラスから話…

烏の森風雲録 8

八「どうかしたのかカンタロー、情けない顔をして、豆鉄砲でも食らったようじゃないか」 通りかかったのは善草寺の最長老山鳩上人です。 「おお、これはお上人さま、おはようございます」 カンタローカラスはかしこまりました。山鳩上人は、鳥の国では一、二…

烏の森風雲録 7

七 サミットも近づいたある日、カンタローカラスは何気なく「バードタイムス」を見てびっくりしました。そこには烏の森特派員発としてこんな記事が掲載されていたのです。■黒いハト、何処をどうとんでいるのでしょうか。 これはハト共和国のはなしです。 こ…

烏の森風雲録 6

六 カンタローカラスはよくわからなくなりました。 「でも、こんなことが許されていいのだろうか」 結果的には、灰色カラスは自分の思いを遂げるために何十羽もの烏の森のカラスたちの生活を奪ってしまったのです。総裁カラスも自分の保身のために灰色カラス…

烏の森風雲録 5

五「それはちょっとちがうんじゃないかしら」 「烏の森風雲録」を読んだというミルカラスが電話をくれました。ミルカラスは組長カラスの一羽で、総裁のやり方にがまんができず烏の森を飛び出したインテリカラスです。医者だったので、その技術を生かして何と…

烏の森風雲録 4

四 赤色カラスが言うには、最初から灰色カラスは烏の森を乗っ取るつもりでやってきたというのです。烏山を追い出された後、灰色カラスはなぜ正しいことを主張した自分が追い出されるはめになったんだろうかと、一生懸命に考えたのでしょう。その結論が権力に…

烏の森風雲録 3

三 カンタローカラスも烏の森を追われた一羽でした。カンタローは羽が黒いカラスだったのですが、総裁たちを強く批判したため、灰色カラスから「残ることを希望しているようですが、あなたには出て行っていただきます」と言われて追い出されてしまったのです…

烏の森風雲録 2

二 はじめのうちは長老と一般カラスの間にたってなんとかなだめてきた組長カラスたちでしたが、そのうちに我慢ができなくなったのか、組長をやめるといいだしたのです。 一般カラスたちはどうかやめないでくれと嘆願書をつくって総裁や組長カラスに訴えまし…

烏の森風雲録

一 そのむかしカラスはみな黒かったわけではありません。もちろん黒いカラスもおりましたが、青いカラスや赤いカラスや黄色いカラスや、白いカラスだっていたのです。 そんな何十羽ものカラスが共同生活を送っている森がありました。烏の森というところです…

愚庵、小池詳敬に従い西国へ。

明治6年の冬、仙台にいる愚庵のもとに小池詳敬から書状が届いた。何事かと開いてみればそこには小池が官を辞して石油会社に協力することになった旨が書かれていた。すなわち「迂拙事聊か存ずる旨あり、近日官を辞し、一身を彼の石油会社に投じ、東海山陽より…

愚庵と落合直亮

愚庵がニコライの神学校を出て、小池詳敬のもとに養われるようになったのは、明治5年のことである。ここで、愚庵のその後の人生に大きな影響を与えることになる山岡鉄舟と出会うのである。 「愚庵和尚年譜」によれば、「落合直亮に国学を学び、山岡鉄舟に禅…

愚庵、ニコライの神学校を離れる

ニコライの神学校を離れた天田愚庵は、「仙台の関係者の紹介か、石丸八郎に寄寓、その後、明治新政府正院大書記の職にあった小池詳敬に養われることになった。」(高橋敏「清水次郎長と幕末維新」) 高橋氏はいとも簡単に書くが、この二人の人物の登場は唐突で…

愚庵と千葉卓三郎

愚庵にとってこのニコライ神父の神学校は安住の場所ではなかった。というのも、愚庵はギリシャ正教に帰依して神学校に入ったのではなかったからだ。 「されど儒教主義の耳もてこの教派の説を聞くことなれば一つも承服するあたはず。重立たる人々に夜ごと呼び…

天田愚庵、ニコライの神学校に入る。

この時から久五郎の両親を求めての彷徨がはじまるのである。平藩は二万石減封ながらも存続は許された。藩士たちは生活の再建に向けて活動をはじめるが、灰燼と化した城下での暮らしは厳しかった。 愚庵は上京する。何かあてがあったわけではない。一日玄米三…

天田愚庵、戊辰戦争に参戦する。

天田愚庵はもとの名を甘田久五郎といった。磐城平藩士甘田平太夫の五男として安政元年に生まれている。 明治元年、戊辰戦争が勃発するや、平藩は奥羽越列藩同盟の一員として、いわゆる新政府軍に敵対することとなった。 六月十六日、薩摩を主力とする新政府…

天田愚庵、清水次郎長の食客となる。

天田五郎(後の愚庵)が清水次郎長の食客となったのは、山岡鉄舟の紹介によるものであった。年譜(「愚庵全集」所載)によると、明治十一年のことであった。る。五郎はこのとき数え二十五歳、ちなみに次郎長は五十九歳、鉄舟は五十三歳であった。 「東海道を経て…

「痩我慢の説」

「痩我慢の説」は、明治二十四年に福沢諭吉が執筆したものであるが、実際に発表されたのは十年後の明治三十四年 (一九〇一)一月一日号の「時事新報」においてであった。福沢の亡くなるほぼ一ヶ月前のことである。 石河幹明はその経緯について次のように記し…

江戸城明け渡し

西郷隆盛との会談を終えた後の勝海舟の日々は、抗戦に逸る幕臣たちを沈静化するのに費やされた。 三月十六日、駿府から帰った覚王院義観は、大総督府の内命として次のように伝えた。「まず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。…

イギリスの圧力

いよいよ二人の会談がはじまるのだが、この直前に西郷のもとには重要な情報がもたらされていた。 この日、東征軍参謀木梨精一郎は横浜に赴き、イギリス公使パークスに面会した。目的は、戦闘による負傷者の手当と彼らを収容する病院の斡旋を依頼するためであ…

交渉

勝海舟は交渉をしようとした。相手は総督府参謀西郷隆盛、旧知の仲である。後に勝は「氷川清話」で「江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ」と語っているが、実際はそうではなかった。 …

勝・西郷会談

官軍の三月十五日の江戸城総攻撃の予定に変更はなく、ひしひしと江戸の町に迫っていた。 「ひそかに聞けることあり」として、官軍の総攻撃が三月十五日であるということ、「退去の念をたたしめ、城地に向いて、必死を期せしむ」ために、市街に火を放ち、退路…

山岡鉄舟

勝海舟が、東征軍の参謀に西郷隆盛がいるということを知るのは、いつ頃のことなのだろうか。日記では、将軍慶喜の謹慎の直後に書かれているで、おそらくはその前後のことであろうと思われる。 このことを知った勝は、和平へ一筋の光明を見いだしたであろう。…

徳川家ナショナリズム

二月十一日、慶喜は幕臣を前に、次のように述べている。「計らずも朝敵の名を蒙るに到りて、今またことばなし、ひとえに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せん。」 陸軍総裁勝海舟にとって、将軍の意向は絶対である。今、勝に課された仕事は、慶喜の名誉の回復と…

朝敵の烙印

将軍徳川慶喜が去った後の江戸城で、勝海舟は事態の打開をはかるべく、方々に手紙を書いている。彼の日記にはその控えが残されている。 明らかに勝が書いたと思われる、徳川慶喜からの嘆願書には、 「右は○○一身の不束より生じ候儀にて、天怒に触れ候段、一…