2010-06-01から1ヶ月間の記事一覧

「痩我慢の説」

「痩我慢の説」は、明治二十四年に福沢諭吉が執筆したものであるが、実際に発表されたのは十年後の明治三十四年 (一九〇一)一月一日号の「時事新報」においてであった。福沢の亡くなるほぼ一ヶ月前のことである。 石河幹明はその経緯について次のように記し…

江戸城明け渡し

西郷隆盛との会談を終えた後の勝海舟の日々は、抗戦に逸る幕臣たちを沈静化するのに費やされた。 三月十六日、駿府から帰った覚王院義観は、大総督府の内命として次のように伝えた。「まず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。…

イギリスの圧力

いよいよ二人の会談がはじまるのだが、この直前に西郷のもとには重要な情報がもたらされていた。 この日、東征軍参謀木梨精一郎は横浜に赴き、イギリス公使パークスに面会した。目的は、戦闘による負傷者の手当と彼らを収容する病院の斡旋を依頼するためであ…

交渉

勝海舟は交渉をしようとした。相手は総督府参謀西郷隆盛、旧知の仲である。後に勝は「氷川清話」で「江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ」と語っているが、実際はそうではなかった。 …

勝・西郷会談

官軍の三月十五日の江戸城総攻撃の予定に変更はなく、ひしひしと江戸の町に迫っていた。 「ひそかに聞けることあり」として、官軍の総攻撃が三月十五日であるということ、「退去の念をたたしめ、城地に向いて、必死を期せしむ」ために、市街に火を放ち、退路…

山岡鉄舟

勝海舟が、東征軍の参謀に西郷隆盛がいるということを知るのは、いつ頃のことなのだろうか。日記では、将軍慶喜の謹慎の直後に書かれているで、おそらくはその前後のことであろうと思われる。 このことを知った勝は、和平へ一筋の光明を見いだしたであろう。…

徳川家ナショナリズム

二月十一日、慶喜は幕臣を前に、次のように述べている。「計らずも朝敵の名を蒙るに到りて、今またことばなし、ひとえに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せん。」 陸軍総裁勝海舟にとって、将軍の意向は絶対である。今、勝に課された仕事は、慶喜の名誉の回復と…

朝敵の烙印

将軍徳川慶喜が去った後の江戸城で、勝海舟は事態の打開をはかるべく、方々に手紙を書いている。彼の日記にはその控えが残されている。 明らかに勝が書いたと思われる、徳川慶喜からの嘆願書には、 「右は○○一身の不束より生じ候儀にて、天怒に触れ候段、一…

陸軍総裁

元治元年九月十一日、勝は初めて西郷隆盛に会った。このとき勝は、幕府はこのままではとても立ち行かない、と西郷に話したという。 このとき西郷は、長州征伐に腰が引けている幕府を督促するために、勝のもとを訪れたのであった。西郷はこの会談のことを、次…

百歳公議の人を待つ

勝海舟の認識も福沢と同じようなものであった。しかしこのとき、勝は評論家にも新聞記者にもなるわけにはいかなかった。一月十七日に海軍奉行並を拝命していたのだ。幕閣勝海舟として事に当らねばならなかった。 城内は抗戦論で沸き返っていた。しかし福沢が…