信玄、上田原で敗れる

 甲斐の武田信玄信濃の南半分をほぼ制圧し、北信濃への侵攻をはじめたのは天文十七年(一五四八)のことであった。二月、信玄は上田原(上田市)に陣し、北信濃最強の武将村上義清に対した。
 村上氏は、清和源氏の流れをくむ豪族で、千曲川左岸の村上郷(埴科郡坂城町)を本拠にして北信濃に勢力を伸ばしていた。
 応永七年(一四〇〇)の大塔合戦では北・東信濃の在地豪族(国人層)を糾合し、守護であった小笠原氏を破ってその力を蓄えた。
 その後、勢力を更級・埴科・水内・高井と北信濃に拡大した。上田原で武田信玄と対峙した時の当主は村上義清であった。
 戦いは地の利を知り尽くした村上軍の有利のうちに展開し、ついには武田軍を敗走させた。この戦いで、武田方は板垣信方甘利虎泰といった有力武将を戦死させ、信玄も傷を負った。武田方の大敗であった。
 村上義清との戦いに敗れ、一度は後退を余儀なくされた信玄であったが、この年の七月、守護小笠原長時の軍勢を塩尻峠の戦いに破り、再び勢いを盛り返した。
 天文十九年(一五五〇)、府中(松本)をほぼ手中にした信玄は、砥石城(上田市)に村上軍を攻めた。砥石城は小県における村上氏の拠点であり、信玄にとってはこの城を落とさなければ村上氏の本拠である葛尾城に迫ることはできなかった。
 八月二十九日、信玄は麓に陣を布き、九月九日に総攻撃をかけた。しかし、二十日に及ぶ攻撃にも城は落ちない。砥石城は、東を神川にのぞみ、西側も峻険な崖になっており、天然の要害ともいうべき位置に建てられた城であった。
 九月晦日、信玄は軍議を開き撤退を決めた。翌十月一日、退却する武田軍に村上軍が猛攻撃をかけた。この退却戦いで武田軍は多くの武将を失った。世にいう「砥石崩れ」である。
 信玄が一月かけても落とせなかった砥石城であったが、翌年五月、真田幸隆によってあっさり落とされた。『高白斎記』には「五月大朔日戊子二十六日節、砥石城真田乗ツ取る」と書かれているだけで、その詳細はわからない。村上軍に内応するものを作った幸隆の作戦が功を奏したためといわれている。