2008-01-01から1年間の記事一覧

02 いつ頃はじまったのか

江戸時代の御開帳というのは、不定期で常念仏何万日とか本堂等の修復落慶記念というような名目で行われました。 最初の開帳は享保一五年で、常念仏二万日を記念したもので、会期は四月一〇日から一六日の七日間でしたが、大勢の参詣人でにぎわったということ…

01 御開帳とは

二〇〇九年の四月四日から五月三一日にかけて、長野市の善光寺では七年に一度(正確には、六年に一度、開催の年も一年と数えると七年に一度となり、善光寺ではこういう表現をとっている。)の御開帳が予定されています。 御開帳というのは別に善光寺の専売特許…

はじめに

牛に引かれて善光寺詣り 一生に一度は善光寺詣り 誰もが一度は聞いたことのあるフレーズですが、長野市の善光寺は、そんな言葉とともに年間六〇〇万人もの人が訪れる全国でも有数の観光寺院です。 そんな善光寺に関する文献は、ガイドの類から専門的な研究書…

本田善光

歴史と伝説の混在ということは善光寺のさまざまなことについていえる。例えば宿坊の歴史、浄土宗系の宿坊がほとんど若麻績姓であることから、すべて本田善光の子孫であるということになっているが、本田善光が想像の人であるとすれば、この説にも首をかしげ…

善光寺聖

善光寺信仰を全国に広めたのは善光寺聖であるといわれている。聖というと高野聖が有名だが、「高野山のほかにも善光寺・長谷寺・四天王寺・東大寺・鞍馬寺・清涼寺などにも聖がおってそれぞれの寺の勧進に従事していた。」(五来重「高野聖」) これらの聖はそ…

善光寺縁起

善光寺の歴史を繙いていくと、史実と伝説が混在していてどこまでが歴史的な事項であるのかわからなくなってしまうことがある。「善光寺縁起」というよく知られた寺の歴史についての言い伝えはあるのだが、これは想像の産物であり、実際の歴史とは違うのだと…

創建当時の善光寺

私たちはふだんさほどの不思議も感じることなく善光寺を見ているのだが、善光寺の創建についてだけでもさまざまな説があり、建立の年代も七世紀半ばから八世紀末まで実に百五十年以上もの開きがあることがわかった。 いずれにせよ、古代のある時期に善光寺は…

坂井衡平の善光寺創建説

坂井衡平の『善光寺史』は現在でも善光寺研究の定本ともいうべき大著だ。坂井は明治一九年伊那の生まれ。東京帝国大学国文学科を首席で卒業した英才だったが、東大の助手時代に教授に疎まれ、学界に自らの席を占めることができなかった。 定職もないまま食う…

善光寺は渡来人によって建てられた?

仏教が十分に地方に浸透していない白鳳時代に善光寺が創建されたとしたら、この寺をつくったのはいったい誰なのかという疑問が残る。聖武天皇の命により全国に国分寺、国分尼寺ができる前から信濃の地に、善光寺の大伽藍があったということじたい不思議なこ…

善光寺瓦 善光寺信仰について4

最近、大本願の境内から善光寺創建の頃と思われる瓦が出土して話題になったが、昭和二八年にも同じようなことがあった。下水道工事を行っていた時、古い瓦が出土したのだ。出土した場所は、善光寺の参道の堂跡地蔵のあたりだったという。堂跡地蔵とは現本堂…

善光寺はいつできたか

善光寺はいつ頃できたのか、さまざまな説があってなかなか特定することができない。寺によっては記録が残っていて、創建年代がはっきりしているものもあるのだが、善光寺の場合は記録らしきものに乏しく、その創建年代についても百花繚乱、説によっては数百…

水内の里 善光寺信仰について

上信越自動車道更埴ジャンクションから上田方面に向かって走ると、トンネルの手前左側に美しく整備された森将軍塚古墳を見ることができる。森将軍塚古墳のような前方後円墳が善光寺平に現れるのは、だいたい四世紀の後半頃からで、この辺を支配した豪族の墓…

不思議な寺 善光寺信仰について

2009年の4月から5月にかけて、長野市の善光寺では7年に1度(正確には、6年に1度、開催の年も1年と数えると7年に1度となり、善光寺ではこういう表現をとっている。)の御開帳が予定されている。 善光寺の御開帳は、秘仏である本尊の善光寺如来の模倣仏である前…

近藤勇

新選組の物語といえば、司馬遼太郎の「新選組血風録」や「燃えよ剣」が有名だが、戦前に新選組の再評価のきっかけとなったのは子母沢寛の「新選組始末記」である。子母沢寛は同書の中で、それまでとかく勤皇の志士の敵役でしかなかった近藤勇と新選組の隊士…

相楽総三 そのまたつづき

「瞼の母」「沓掛時次郎」といった股旅もので知られる長谷川伸の作品に「相楽総三とその同志」という長編がある。これは小説というよりは多くの資料を渉猟したドキュメンタリーとでもいった方がいいような作品であるのだが、その冒頭50余ページ(中公文庫版)…

相楽総三 つづき

総督府の命令に従わず中津川から妻籠に入った相楽総三らの一行は、ここから中山道をはずれ、清内路峠を越える。越えると伊那谷になるのだが、当時のメインルートである木曽路を通らず、峻険な清内路峠を越えたのはなぜなのか。 伊那地方は幕末には国学が盛ん…

相楽総三

赤報隊の相楽総三は実に不運な男であった。幕末の動乱期に斬首された、近藤勇や小栗上野之介も不運な生涯だったと思うが、それでも彼らには抹殺されなければならない理由というのが、少なくとも官軍の側にはあった。相楽は官軍でありながら、偽官軍というレ…