川中島の戦い

第四回目の戦い 永禄四年
 永禄四年八月、春日山を出発した上杉軍は十四日に海津城西南にある妻女山に陣を取った。山上からは海津城を望むことができる。
 この知らせは十六日には甲府の信玄のもとに届いた。信玄は急ぎ出陣の支度をさせ、
十八日大軍を率いて甲府を立ち、二十四日に川中島に到着した。妻女山近くの雨宮渡に陣を取った後、二十九日に海津城に入った。
 九月九日、海津城での軍議で、信玄は翌日未明に妻女山の上杉軍に総攻撃をかけることを決めた。この時、山本勘介の進言を入れて取ったのが啄木鳥の戦法であった。すなわち、武田の軍勢を二手に分け、一万二千の軍勢で早朝に妻女山を攻撃する。上杉軍はこの攻撃で、山を下り退くだろうから、これを残り八千で待ち受け挟み撃ちにしようというものである。
 しかし、上杉軍は海津城から上る炊飯の煙を見て、翌日の攻撃を悟る。謙信は夜半秘かに山を下り、雨宮渡を渡って対岸に出た。この日、川中島は一面の霧で一寸先も見えない。
 やがて日が昇り霧が晴れてくると、信玄の本陣の間近に上杉の大軍が迫っていた。出会い頭の衝突のようにして両軍の戦いがはじまった。戦いは最初は上杉軍が有利に展開したが、妻女山攻撃の軍勢が加わると形勢は逆転した。
 戦いは夕刻まで及んだ。両軍に大きな被害が出たものの、最終的な雌雄をするまでにないは至らなかった。
 武田軍はこの戦いで、信玄の弟である典厩信繁、両角豊後守、山本勘介入道道鬼、初鹿野源五郎らの武将が戦死した。
 この戦いのさなか、上杉謙信が馬で信玄の本陣に襲いかかり、信玄に斬りつけたとの話が「甲陽軍鑑」にはあるが、真偽のほどはわからない。

第五回目の戦い 永禄七年の戦い
 信玄の勢力が飛騨から越中を狙っていることを察知した謙信は、背後から越後を攻撃される危険を感じた。改めて信玄の勢いを削ぐことの必要を感じた謙信は七月春日山を出発して、二十九日に善光寺に着いた。八月一日、更級の八幡宮(武水別神社)に必勝の願文を納め、三日には川中島に陣を取った。
 一方の信玄は軍を府中(松本市)方面から進めて塩崎(長野市)に陣を取った。両軍のにらみ合いは、戦闘のないまま六十日に及んだが、関東での反乱を聞いた謙信が兵を引き上げたため、信玄も兵をひいた。

 五度にわたる戦いの結果、川中島平はほぼ信玄の支配下となった。これ以後、信玄と謙信は直接戦うことはなかった。
 信玄は川中島平の支配の要を海津城に置き、ここを寵臣である高坂昌信に守らせた。