2010-01-01から1年間の記事一覧

天田愚庵、ニコライの神学校に入る。

この時から久五郎の両親を求めての彷徨がはじまるのである。平藩は二万石減封ながらも存続は許された。藩士たちは生活の再建に向けて活動をはじめるが、灰燼と化した城下での暮らしは厳しかった。 愚庵は上京する。何かあてがあったわけではない。一日玄米三…

天田愚庵、戊辰戦争に参戦する。

天田愚庵はもとの名を甘田久五郎といった。磐城平藩士甘田平太夫の五男として安政元年に生まれている。 明治元年、戊辰戦争が勃発するや、平藩は奥羽越列藩同盟の一員として、いわゆる新政府軍に敵対することとなった。 六月十六日、薩摩を主力とする新政府…

天田愚庵、清水次郎長の食客となる。

天田五郎(後の愚庵)が清水次郎長の食客となったのは、山岡鉄舟の紹介によるものであった。年譜(「愚庵全集」所載)によると、明治十一年のことであった。る。五郎はこのとき数え二十五歳、ちなみに次郎長は五十九歳、鉄舟は五十三歳であった。 「東海道を経て…

「痩我慢の説」

「痩我慢の説」は、明治二十四年に福沢諭吉が執筆したものであるが、実際に発表されたのは十年後の明治三十四年 (一九〇一)一月一日号の「時事新報」においてであった。福沢の亡くなるほぼ一ヶ月前のことである。 石河幹明はその経緯について次のように記し…

江戸城明け渡し

西郷隆盛との会談を終えた後の勝海舟の日々は、抗戦に逸る幕臣たちを沈静化するのに費やされた。 三月十六日、駿府から帰った覚王院義観は、大総督府の内命として次のように伝えた。「まず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。…

イギリスの圧力

いよいよ二人の会談がはじまるのだが、この直前に西郷のもとには重要な情報がもたらされていた。 この日、東征軍参謀木梨精一郎は横浜に赴き、イギリス公使パークスに面会した。目的は、戦闘による負傷者の手当と彼らを収容する病院の斡旋を依頼するためであ…

交渉

勝海舟は交渉をしようとした。相手は総督府参謀西郷隆盛、旧知の仲である。後に勝は「氷川清話」で「江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ」と語っているが、実際はそうではなかった。 …

勝・西郷会談

官軍の三月十五日の江戸城総攻撃の予定に変更はなく、ひしひしと江戸の町に迫っていた。 「ひそかに聞けることあり」として、官軍の総攻撃が三月十五日であるということ、「退去の念をたたしめ、城地に向いて、必死を期せしむ」ために、市街に火を放ち、退路…

山岡鉄舟

勝海舟が、東征軍の参謀に西郷隆盛がいるということを知るのは、いつ頃のことなのだろうか。日記では、将軍慶喜の謹慎の直後に書かれているで、おそらくはその前後のことであろうと思われる。 このことを知った勝は、和平へ一筋の光明を見いだしたであろう。…

徳川家ナショナリズム

二月十一日、慶喜は幕臣を前に、次のように述べている。「計らずも朝敵の名を蒙るに到りて、今またことばなし、ひとえに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せん。」 陸軍総裁勝海舟にとって、将軍の意向は絶対である。今、勝に課された仕事は、慶喜の名誉の回復と…

朝敵の烙印

将軍徳川慶喜が去った後の江戸城で、勝海舟は事態の打開をはかるべく、方々に手紙を書いている。彼の日記にはその控えが残されている。 明らかに勝が書いたと思われる、徳川慶喜からの嘆願書には、 「右は○○一身の不束より生じ候儀にて、天怒に触れ候段、一…

陸軍総裁

元治元年九月十一日、勝は初めて西郷隆盛に会った。このとき勝は、幕府はこのままではとても立ち行かない、と西郷に話したという。 このとき西郷は、長州征伐に腰が引けている幕府を督促するために、勝のもとを訪れたのであった。西郷はこの会談のことを、次…

百歳公議の人を待つ

勝海舟の認識も福沢と同じようなものであった。しかしこのとき、勝は評論家にも新聞記者にもなるわけにはいかなかった。一月十七日に海軍奉行並を拝命していたのだ。幕閣勝海舟として事に当らねばならなかった。 城内は抗戦論で沸き返っていた。しかし福沢が…

物論沸騰

江戸城ないが、抗戦か恭順で沸騰しているころ、福沢諭吉もまた城内に詰めていた。「福翁自伝」の語り口はより臨場感をともなっている。 「さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者…

将軍東帰

大坂城を脱出した徳川慶喜が、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を伴って、軍艦開陽丸で江戸に着いたのは、慶応四年一月十一日のことであった。勝海舟は浜御殿の海軍所で慶喜に拝謁している。勝のその日の日記には次のように書かれている。 「開陽艦品海へ…

大政奉還

勝海舟が江戸に戻った後の京の政局は、めまぐるしく動いた。その焦点は、武力倒幕をめざす薩摩や長州と、徳川幕府をも加えた大名連合による新たな政体を模索する土佐藩らの公議政体論との確執であった。 慶応二年十二月五日、すでに徳川宗家を相続していた徳…

政権の返上

勝海舟が長州藩の広沢平助らに約束したこと、幕府が政権を返上するという条件は、一橋慶喜によって反古にされてしまう。慶喜は将軍家茂の喪中であることを理由に休戦せよという勅錠を朝廷に請い、長州国境の兵を引いたのである。 徳川15代将軍慶喜は、水戸藩…

停戦交渉

慶応二年八月、軍艦奉行であった勝海舟は、一橋慶喜に全権を任され、第二次征長戦争の集結のための交渉に芸州に向かった。いったい慶喜は、この戦争の決着をどのようにつけようとしていたのであろうか。 「(慶喜公より)御直で長州への使者を仰せ付けられたの…

軍艦奉行再任

慶応二年五月、屏居中の勝海舟に「登城せよ」との呼び出しがあった。「幕末日記」を見ると五月二十八日のこととなっている。そして、再び軍艦奉行に任ぜられたとのである。そしてさらに「京坂の事急なり、一日も猶予すべからず、速に上坂せよ」との上命が伝…

長州征伐

元治元年十一月、勝海舟は軍艦奉行を解任され、江戸に帰された。「余も亦嫌忌を蒙り、十一月被召帰、帰来職を奪はれ、家に屏居す。」(「解離録」) 嫌忌を蒙った理由については、大久保一翁からの書簡で知られる。 「君神戸に在る時、既に長人を囲ひ置、或は…

海舟失脚

勝海舟の失脚により、龍馬と仲間たちは行き場を失ってしまう。自分たちの生きる術を見つけるということが当面の課題となった。彼らは薩摩を頼った。 この時の海舟について、幕府を見限って飛び出すこともできたのではと、松浦氏は言う。しかし、「海舟がもう…

神戸海軍操練所をめぐって

文久三年、神戸海軍操練所をめぐっての龍馬との微妙な行き違いが生じる。その発端は、七月二五日付の佐藤与之助・坂本龍馬から勝海舟に宛てた手紙である。それについて松浦玲氏が「坂本龍馬」(岩波新書)の中で言及している。 松浦氏によれば、この書簡は佐藤…

麟太郎という大先生の門人となり

文久三年から四年にかけての坂本龍馬は、勝海舟のもとで、江戸、大坂、京都、福井、長崎を往来し、勝の人脈につながる幕府の要人たちに会っている。松平春嶽、大久保一翁、横井小楠といった人たちである。龍馬二十九歳から三十歳、得意の時期であった。この…

龍馬の軌跡

坂本龍馬は行動の人であった。 というのは後世の人々の共通に持っている認識ではないか。その行動の人に、自分の思いを書き付けている暇はなかったのかもしれない。著述がほとんどない所以であろう。 日記もない。まめにとはいえないが、大事な局面には克明…

海舟と龍馬の出会い

坂本龍馬との出会いについて、勝海舟は「氷川清話」の中で「坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いていたな、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ。」という風に話しているが、「…

松平春嶽と横井小楠

文久二年の海軍大評議の前日閏八月一九日、勝海舟は政治総裁職松平春嶽に面会している。このとき、春嶽から「海軍は如何にして盛ん成るべき哉」と尋ねられた(「幕末日記」)。翌日の予行演習のような話である。 「当今乏敷ものは人物なり」海舟はそう答えたよ…

海舟のいじめ

時々引用している勝海舟の「幕末日記」は、明治維新期の第一級の資料であるといわれている。しかしこれはあくまでも勝海舟という非常に個性の強い政治家(官僚)のフィルターを通した維新史なのであって、見方を変えるとまったく異なったものが見えてくること…

臍を曲げる

土居良三氏によれば、この海軍計画を中心になってまとめたのは小野友五郎であるという。小野は文化一四年(一八一七)の生まれ。測量術や航海術を学び、安政二年(一八五五)には長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。 万延元年、航海長として咸臨丸…

海軍の議

海軍奉行並に就任したばかりの閏八月二〇日、幕府首脳がこぞって出席し、将軍の前で「海軍の議」があった。その席に勝も呼ばれ、意見を求められた。 この日に軍制会議が開かれることは前々から予定されていたことで、ここでは今後の幕府海軍の方針が話される…

軍艦奉行並

アメリカから帰国したのち、勝麟太郎は四百石取りの天守番頭格となり、役職としては、万延元年六月に蕃書調所頭取助を命ぜられている。 蕃書調所は、ペリー来航後の時代に対応するために安政二年に設けられた洋学所がその前身。しかし安政大地震のため洋学所…