海津城の築城

 甲斐、武蔵、信濃の三国にまたがる甲武信ヶ岳に源を発する千曲川は、佐久、上田の平を流れて川中島平に入る。ここで北アルプスから流れてきた犀川と合流するのだが、その合流点の近く、千曲川の畔に松代の里はある。
 戦国の武将武田信玄は、この三方を険しい山に囲まれ、西側を千曲川の流れが洗う天然の要害ともいうべき松代の地に海津城を築いた。川中島平を支配する根拠地をこの地に求めたのである。
 松代は古くは県(あがた)の庄とか英多(あがた)の庄とか呼ばれていた。松代あるいは松城と呼ばれるようになるのは、江戸時代に入ってからである。
 この海津城築城の時期については諸説がある。武田信玄、勝頼の事跡を記した「甲陽軍鑑」には次のように書かれている。
「天文二十二年丑の八月吉日に、川中嶋の内、清野殿屋敷を召し上げられ、山本勘介道鬼に縄張りをさせなされ、かいづの城と名付、本城に小山田後の備中、二のくるわに市川梅印、原与左衛門指をかるる」。
 天文二十二年(一五五三)といえば、第二回目の川中島の戦いの前年である。地元の豪族(国人)であった清野氏の屋敷を取り上げ、山本勘助に縄張りをさせて、海津城を築いたとあるのだが、この郷土史家の小林計一郎は天文二十二年では早すぎるとし、第四回川中島の戦いの前年、永禄三年(一五六〇)の完成が妥当ではないかとしている。
 確かに信玄の北信濃支配の段階から考えれば、天文二十二年ではまだ松代までその支配が及んでいないものと思われるのである。