村上義清、上杉謙信に助けを求める

 この戸石城の攻略を境に武田と村上の勢いは逆転した。天文二十二年四月六日、武田軍は村上義清の本拠である葛尾城(埴科郡坂城町)を攻めたが、義清は戦うことなく越後の上杉謙信を頼って落ち延びていった。
 村上義清は、北信濃の豪族井上・須田・島津・栗田といった諸氏とともに上杉謙信に助けをもとめた。謙信はこれら北信濃の豪族たちの求めに応ずるという形で、川中島に侵攻してきた武田信玄の打倒に乗り出したのである。
 弘治三年()正月、更級郡にある八幡宮(現在の千曲市にある武水別神社)に奉納した上杉謙信の願文には、信玄討滅の理由が書かれている。
「ここに武田信玄と号する侫臣ありて、彼の信州に乱入し、住国の諸士ことごとく滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆塁年に及ぶ。何ぞ晴信に対し、景虎闘争を決すべき遺恨なからん」。
 謙信は自らが信濃に出向き信玄と戦うのは、信濃の諸士のためとしているのだが、北信濃が破られれば領国である越後も危険にさらされるということが実際の理由であったのだろう。
かくして上杉謙信武田信玄との戦いを決意し、天文二十二年四月、川中島に兵を進めた。