海津城と山本勘介

「甲陽軍艦」では、天文二十二年の築城とされる海津城であるが、第四次の川中島の戦いを前につくられたとするのが妥当であろう。この頃になってようやく川中島平の多くが武田信玄支配下になっているからだ。
 城地はもともとが地元の豪族清野氏の屋敷であった。清野氏は天文二十二年に武田信玄に従っている。「信府統記」には次のように記されている。
「城は昔は清野氏が屋敷地なり、清野氏初め村上義清に属し、後武田信玄に従ふ、清野入道清寿軒、同左衛門左等なり、西条氏も清野の一族なり、清野の城は同所清野村の上高山にて鞍骨の城と云ふ、松代の城より申酉の方に当る」
 海津城の縄張りは信玄の足軽大将山本勘介が行った。山本勘介はその実在も含めて謎の多い人物である。「甲陽軍鑑」には、勘介は三河国牛窪(愛知県豊川市)の人で、今川家の家老朝比奈兵衛尉の取りなしで今川義元に仕えようとしたことがあったということが書かれている。
 しかし義元は、勘介が容貌の冴えない醜男であり、しかも五体満足でないことから、軍法家などというが怪しいものだと抱えることはしなかった。
 それに対して武田信玄は、
「いかに山本勘介、うしくぼの小身なる家より出ても、軍法をよく鍛錬仕るにをいては、武士の知識なりとて、武田信玄公、勘介を聞及び給ひ百貫の知行にて召寄らるる」
 時に天文十二年のことであった。その後、知行はさらに増えて合計三百貫となり、信玄の軍師として数々の合戦にその力を発揮した。
 特に城取りの名人として多くの城の縄張りを行ったが、信濃では高遠城小諸城海津城などが勘介の手になるといわれている。
 勘介の築城術は「甲州流築城術」とよばれ、丸馬出という独特の馬出の形と、三日月堀という三日月形の堀割が大きな特徴である。
 海津城は、三方を峻険な山に囲まれ、千曲川の流れを背後に、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、丸馬出及び三日月堀を有している。
 城将には最初小山田虎満、後に春日虎綱(高坂昌信)がつとめている。なお、高坂昌信は「甲陽軍鑑」の作者とされている。