2010-04-01から1ヶ月間の記事一覧

海舟のいじめ

時々引用している勝海舟の「幕末日記」は、明治維新期の第一級の資料であるといわれている。しかしこれはあくまでも勝海舟という非常に個性の強い政治家(官僚)のフィルターを通した維新史なのであって、見方を変えるとまったく異なったものが見えてくること…

臍を曲げる

土居良三氏によれば、この海軍計画を中心になってまとめたのは小野友五郎であるという。小野は文化一四年(一八一七)の生まれ。測量術や航海術を学び、安政二年(一八五五)には長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。 万延元年、航海長として咸臨丸…

海軍の議

海軍奉行並に就任したばかりの閏八月二〇日、幕府首脳がこぞって出席し、将軍の前で「海軍の議」があった。その席に勝も呼ばれ、意見を求められた。 この日に軍制会議が開かれることは前々から予定されていたことで、ここでは今後の幕府海軍の方針が話される…

軍艦奉行並

アメリカから帰国したのち、勝麟太郎は四百石取りの天守番頭格となり、役職としては、万延元年六月に蕃書調所頭取助を命ぜられている。 蕃書調所は、ペリー来航後の時代に対応するために安政二年に設けられた洋学所がその前身。しかし安政大地震のため洋学所…

アメリカの能力主義

三十七日間の航海を終えて、咸臨丸がサンフランシスコに到着したのは、安政七年二月二十六日のことであった。現地では、初めて日本人が訪れたという物珍しさもあって、大歓迎を受けた。乗組員たちも初めて見る異国の姿に、大いに刺激されたようである。 例え…

咸臨丸の3人の指揮官

太平洋を横断中の咸臨丸に話をもどす。 万延元年の渡米に際して、咸臨丸の指揮をとった人物は三人いた。最高責任者は軍艦奉行という地位で乗組んだ、冒頭に紹介した木村摂津守喜毅である。しかし、木村は海軍の専門技術者ではない。実質的な艦長は勝麟太郎で…

長崎海軍伝習所

咸臨丸(ヤパン号)は、第一次の教師団と交代する任務を帯びて、安政四年八月、長崎に到着した。第二次教師団の責任者ファン・カッティンディーケは、後に次のように回想している。 「一八五六年(安政三年)私は勅命によって植民大臣付きに補せられ、日本の将軍…

咸臨丸

「咸臨丸は、アメリカ建国史のメイフラワー号のように、日本近代史のあけぼののなかを、一個の人格に似て息づいている。」(「咸臨丸誕生の地」) 咸臨丸での渡米のことをこのように書いたのは、作家の司馬遼太郎である。司馬らしい、的確にしてさわやかに、歴…

咸臨丸船中の勝

明治三十二年(一八九九)、巌本善治は隠居中の木村介舟(摂津守喜毅)を、四谷坂町の自宅に訪ねている。この年の一月に亡くなった勝海舟の思い出を聞くためであった。 巌本は明治女学校の二代目の校長であり、「女学雑誌」の発行人でもあった。勝海舟とも親しく…

白虎隊の忠義

今どき、白虎隊の忠義の亡霊が甦ると思うものはいないだろう。だから、白虎隊の忠義を批判し警鐘を鳴らすこと自体が時代錯誤、アナクロニズムなのかもしれない。 リヒャルト・ハイゼ「日本人の忠誠心と信仰」は、戦前の日本に長く暮らしたドイツ人による、日…