2010-05-01から1ヶ月間の記事一覧

物論沸騰

江戸城ないが、抗戦か恭順で沸騰しているころ、福沢諭吉もまた城内に詰めていた。「福翁自伝」の語り口はより臨場感をともなっている。 「さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者…

将軍東帰

大坂城を脱出した徳川慶喜が、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を伴って、軍艦開陽丸で江戸に着いたのは、慶応四年一月十一日のことであった。勝海舟は浜御殿の海軍所で慶喜に拝謁している。勝のその日の日記には次のように書かれている。 「開陽艦品海へ…

大政奉還

勝海舟が江戸に戻った後の京の政局は、めまぐるしく動いた。その焦点は、武力倒幕をめざす薩摩や長州と、徳川幕府をも加えた大名連合による新たな政体を模索する土佐藩らの公議政体論との確執であった。 慶応二年十二月五日、すでに徳川宗家を相続していた徳…

政権の返上

勝海舟が長州藩の広沢平助らに約束したこと、幕府が政権を返上するという条件は、一橋慶喜によって反古にされてしまう。慶喜は将軍家茂の喪中であることを理由に休戦せよという勅錠を朝廷に請い、長州国境の兵を引いたのである。 徳川15代将軍慶喜は、水戸藩…

停戦交渉

慶応二年八月、軍艦奉行であった勝海舟は、一橋慶喜に全権を任され、第二次征長戦争の集結のための交渉に芸州に向かった。いったい慶喜は、この戦争の決着をどのようにつけようとしていたのであろうか。 「(慶喜公より)御直で長州への使者を仰せ付けられたの…

軍艦奉行再任

慶応二年五月、屏居中の勝海舟に「登城せよ」との呼び出しがあった。「幕末日記」を見ると五月二十八日のこととなっている。そして、再び軍艦奉行に任ぜられたとのである。そしてさらに「京坂の事急なり、一日も猶予すべからず、速に上坂せよ」との上命が伝…

長州征伐

元治元年十一月、勝海舟は軍艦奉行を解任され、江戸に帰された。「余も亦嫌忌を蒙り、十一月被召帰、帰来職を奪はれ、家に屏居す。」(「解離録」) 嫌忌を蒙った理由については、大久保一翁からの書簡で知られる。 「君神戸に在る時、既に長人を囲ひ置、或は…

海舟失脚

勝海舟の失脚により、龍馬と仲間たちは行き場を失ってしまう。自分たちの生きる術を見つけるということが当面の課題となった。彼らは薩摩を頼った。 この時の海舟について、幕府を見限って飛び出すこともできたのではと、松浦氏は言う。しかし、「海舟がもう…

神戸海軍操練所をめぐって

文久三年、神戸海軍操練所をめぐっての龍馬との微妙な行き違いが生じる。その発端は、七月二五日付の佐藤与之助・坂本龍馬から勝海舟に宛てた手紙である。それについて松浦玲氏が「坂本龍馬」(岩波新書)の中で言及している。 松浦氏によれば、この書簡は佐藤…

麟太郎という大先生の門人となり

文久三年から四年にかけての坂本龍馬は、勝海舟のもとで、江戸、大坂、京都、福井、長崎を往来し、勝の人脈につながる幕府の要人たちに会っている。松平春嶽、大久保一翁、横井小楠といった人たちである。龍馬二十九歳から三十歳、得意の時期であった。この…

龍馬の軌跡

坂本龍馬は行動の人であった。 というのは後世の人々の共通に持っている認識ではないか。その行動の人に、自分の思いを書き付けている暇はなかったのかもしれない。著述がほとんどない所以であろう。 日記もない。まめにとはいえないが、大事な局面には克明…

海舟と龍馬の出会い

坂本龍馬との出会いについて、勝海舟は「氷川清話」の中で「坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いていたな、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ。」という風に話しているが、「…

松平春嶽と横井小楠

文久二年の海軍大評議の前日閏八月一九日、勝海舟は政治総裁職松平春嶽に面会している。このとき、春嶽から「海軍は如何にして盛ん成るべき哉」と尋ねられた(「幕末日記」)。翌日の予行演習のような話である。 「当今乏敷ものは人物なり」海舟はそう答えたよ…