2009-01-01から1ヶ月間の記事一覧

27 善光寺地震

弘化四年(一八四七)三月九日、善光寺では六万五千日回向がはじまりました。会期は四月末までを予定していたのですが、後で述べるような事情でこの回向は三月二四日で突然終了してしまいます。 回向というのは、出開帳に対して、信濃の本寺で行われる開帳のこ…

26 出開帳

江戸は人口が集中し、さまざまの情報が集積する大都市でしたから、善光寺に限らず全国の有名諸寺が出開帳を行いました。喜多村信節の「嬉遊笑覧」には善光寺、清涼寺、成田山新勝寺が多くの参詣者を集めたとあります。 善光寺の出開帳が行われた深川の回向院…

25 本堂再建

焼けた善光寺再建のための動きは元禄一三年の暮れから本格化しました。もともと再建予定で用材を集めていたのですが、それがすべて灰燼に帰してしまったわけですから、また一から出直しということになりました。 まず、善光寺大勧進の住職に柳沢吉保の甥の慶…

24 寛文如来堂

慶長三年八月一七日、善光寺如来は京都を出発し信濃の国に向かいました。如来を安置する如来堂は、慶長五年豊臣秀頼が寄進して建立されました。実に四五年ぶりに御本尊が善光寺に帰ってきたわけです。 しかし、この如来堂は元和元年三月、雷による火災で焼失…

23川中島の戦いと善光寺如来

天文二二年(一五五三)、善光寺平の南部で甲斐の武田軍と越後の上杉軍の小競り合いがありました。これが後の世に名高い「川中島の戦い」の端緒でした。それから一五七七年まで両軍の戦いは五度にも及びました。 善光寺は、この戦いの影響をもろに受けることに…

21 かるかやの物語

北石堂町の中央通り沿いに、長野市民から「かるかやさん」とか「かるかや堂」と呼ばれて親しまれている西光寺があります。正式には苅萱山西光寺、浄土宗の寺です。寺の縁起によれば、苅萱道心と子の石童丸が晩年に高野山より移り住んだ場所であるといいます…

22 説話文学の担い手

「日本霊異記」の冒頭には「諾楽(なら)の右京の薬師寺の沙門景戒録す」と作者の名前が明記されております。この景戒というお坊さん、何のためにこの説話集を編んだのでしょうか。この時代の文章ですから全文漢文で書かれております。薬師寺の僧となる前は、…

20 虎ヶ石と「曽我物語」

善光寺からほど遠くない岩石町、武井神社の裏手に虎ヶ塚と呼ばれる一抱えほどの石があります。言い伝えでは「曽我物語」の曽我十郎の愛人であった虎御前の墓といわれ、傍らには虎石庵という小さな庵もありました。 曽我兄弟の仇討ちのお話は、よく知られてい…

18 大塔合戦と時衆

大塔合戦は、小笠原長秀の入部をめぐって、それに抵抗する在地の国人たち大文字一揆の面々との戦いでした。この戦いはそれから一六〇年後に行われた、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信による有名な川中島の戦いに比べると知名度は今ひとつのようです。 長秀は…

17 「大塔物語」の善光寺

応永七年(一四〇〇)八月、信濃国の守護となった小笠原長秀は善光寺に参詣します。そのときのようすを「大塔物語」は次のように伝えています。 「見物の諸人は、善光寺の南大門及び蒼花川の高畠に、履の子を打つ所無し、凡そ善光寺者は、三国一之霊場にして生…

19 桜小路の遊女

「大塔物語」にはこんなエピソードも記されています。この合戦で戦死した武将坂西長国を寵愛を受けた桜小路の遊女玉菊・花寿が長国の霊を弔うために善光寺に赴き出家したとのことです。 桜小路は善光寺七小路のひとつです。坂井衡平の「善光寺史」に次のよう…

16 一遍と善光寺

高野山、熊野、四天王寺そして善光寺と霊場を巡りながら一生を旅に終えた一遍聖は善光寺とゆかりの深い僧だ。一遍は生涯に二度(あるいは三度とも)善光寺に詣っている。 その出自について「一遍ひじりは俗姓は越智氏河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如…

15 鎌倉時代の善光寺

時宗の祖一遍上人の一代記を絵巻物にしたものに「一遍聖絵」がある。ここに善光寺の全景が描かれていて、鎌倉時代の善光寺の姿をほぼ正確に知ることができる。編集したのは弟子の聖戒、絵を描いたのは円伊という画家なのだが、どんな経歴の画人なのかよくわ…

14 源頼朝は善光寺に詣ったのか

堂跡地蔵の前から石畳の参道を進むと、大勧進の手前、仲見世が尽きるあたりに小さな石の橋があります。「駒返橋」と呼ばれるこの橋、注意していないと通り過ぎてしまいそうなほどに目立たない橋です。 小さな石橋ですが、この橋には征夷大将軍源頼朝にまつわ…

13 聖と善光寺の出会いはどこにあったのか

善光寺信仰を全国に広め歩いたのは、旅の僧、すなわち聖たちであったということですが、それでは善光寺と聖たちの最初の接点はどこにあったのでしょうかか。 五来重は聖の発生について次のように述べている。「今日の日本民俗学、ないし日本庶民仏教史の立場…

12 善光寺信仰を広めた聖とは

善光寺信仰を全国に広めたのは善光寺聖であるといわれています。聖というと高野聖が有名ですが、「高野山のほかにも善光寺・長谷寺・四天王寺・東大寺・鞍馬寺・清涼寺などにも聖がおってそれぞれの寺の勧進に従事していた。」(五来重「高野聖」) これらの聖…

11 本田善光とは誰か

「善光寺縁起」に話を戻します。難波堀江に沈められた善光寺如来はその後どうなったかというと、 推古天皇の時代になって、信濃国麻績郷に住む本田善光が難波堀江を通りかかると、水の中から如来が現れ、善光の背に飛び移り、東国に行って衆生を救えと託宣し…

10 如是姫はその後どうなったのか

「善光寺縁起」には月蓋長者が百済の聖明王に生まれ変わり、その後日本で本田善光に生まれ変わった話はありますが、娘の如是姫がどうなったのかという話はありません。一説には聖明王の子に生まれ変わり、善光の子善佐に生まれ変わったのだというのですが、…

09 三国伝来とは

善光寺の本尊である善光寺如来について「三国伝来の生き仏」ということが言われています。「三国伝来」にしても「生き仏」であるということにしても善光寺縁起に記されていることで、昔からそのような伝承があったと言うことなのでしょう。三国というのは、…

08 善光寺縁起とはどのようなものか

善光寺の歴史を繙いていくと、史実と伝説が混在していて、どこまでが史実であるのかどこからが伝説であるのかわからなくなってしまうことがあります。善光寺には、「善光寺縁起」という寺の歴史についての言い伝えがあり、先に紹介した「善光寺御開帳公式ハ…

07 芋井草堂とは

善光寺はいつ頃できたのだろうかという疑問に対して、いくつかの説を紹介してきたわけですが、いずれの説も物的証拠に乏しく、唯一の証拠ともいうべき軒丸瓦にしても、時代ははっきりとは特定できないことがわかりました。ということになると、状況証拠を集…

06 善光寺は渡来人が建てた寺なのか

古代の日本列島には、進んだ技術を持った朝鮮半島からの渡来人が多くやってきて、各地に移り住み、その技術や文化を土着の人々に伝えていったということが地方レベルにまで進んでいたようです。その中に仏教の教えがあったとしても不思議ではありません。研…

05 坂井衡平は善光寺の創建年代をどのように推定したか

坂井衡平の『善光寺史』は現在でも善光寺研究の定本ともいうべき大著です。。坂井は明治一九年伊那の生まれ。東京帝国大学国文学科を首席で卒業した英才でしたが、東大の助手時代に教授に疎まれ、学界に自らの席を占めることができませんでした。 定職もない…

04 善光寺はいつ頃できたのか

善光寺の創建年代については、さまざまな説があってなかなか特定することができません。寺によっては記録が残っていて、つくられた年がはっきりしているものもあるのですが、善光寺の場合は記録らしきものに乏しく、その年代についても百花繚乱、説によって…

03 なぜ秘仏になったのか

善光寺の本尊である善光寺如来は秘仏です。しばしば行われる御開帳の時でさえ拝観できるのは、前立本尊といわれるレプリカです。 善光寺如来はいつ頃からどんな理由で秘仏になったのか、これもはっきりはわかりません。『善光寺縁起」によれば、「孝徳天皇の…