23川中島の戦いと善光寺如来

 天文二二年(一五五三)、善光寺平の南部で甲斐の武田軍と越後の上杉軍の小競り合いがありました。これが後の世に名高い「川中島の戦い」の端緒でした。それから一五七七年まで両軍の戦いは五度にも及びました。
 善光寺は、この戦いの影響をもろに受けることになるのです。武田信玄は弘治元年、善光寺如来をはじめとする堂内の諸仏を小県郡禰津村(現在の東御市)に移し、ついで永禄元年には、甲州に運びました。そして永禄八年には甲府如来堂を造営し、善光寺如来を安置したのです。これが現在の甲斐善光寺です。
 甲斐善光寺には、今でも建久六年の銘のある善光寺如来三尊像、本田善光夫妻の木像、源頼朝、実朝の像など信濃善光寺から運んだ宝物が多く残されています。
 一方上杉謙信も、善光寺の宝物を越後に運び、春日山城下に十念寺(浜善光寺)を建立しています。
 信玄が善光寺如来甲府に移す際、別当の栗田氏をはじめ、多くの僧たちも如来に従って甲府に移ったため、善光寺の門前はすっかり寂れてしまいました。
 天正一〇年、の戦いに敗れた武田勝頼は自害し、武田家は亡びます。戦いに勝った織田信長の子信忠は、甲斐善光寺善光寺如来を岐阜の城下に移してしまいます。その後、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、その光秀も豊臣秀吉に討たれると、善光寺如来は再び甲府に戻されました。
 豊臣秀吉は、天下に号令するようになると、その力を誇示するかのように京都東山に方広寺を建立し、木造の大仏を作って本尊としました。しかし、この大仏は慶長六年の地震によりもろくも壊れてしまうのです。
 この事態は秀吉をいたく落胆させました。仏は大きいだけではだめだ。三国伝来日本最古の仏である善光寺如来こそは、この寺の本尊にふさわしい。そう考えた秀吉は善光寺如来甲府から京都に迎えたのです。
 善光寺如来を京都に迎えた頃から、秀吉は健康を損ねるようになりました。その原因が如来を移したことによるのではないかという噂が京都ではしきりだったようです。武田家は如来甲府に移してから間もなく亡び、信長も本能寺で討たれました。そんな暗合も噂に尾ひれをつけたようです。
 慶長三年八月五日、秀吉は死の床にあって遺言状をしたため、五大老に宛てて後のことはくれぐれもよろしくと頼んだのですが、同じ頃善光寺如来信濃に返すことも決めました。