22 説話文学の担い手

 「日本霊異記」の冒頭には「諾楽(なら)の右京の薬師寺の沙門景戒録す」と作者の名前が明記されております。この景戒というお坊さん、何のためにこの説話集を編んだのでしょうか。この時代の文章ですから全文漢文で書かれております。薬師寺の僧となる前は、現在の和歌山市のあたりに住む半僧半俗の宗教者であったようです。
 説話というのは書いて字の如くで、人に語りかける文学(口承文学)です。人々を前に仏の功徳を語ったわけですが、そのままでは民衆は聞いてくれませんから、たとえ話などを引いて聴衆を自分のペースに引き込んだものでしょう。この景戒という人はそういうことに携わる僧侶であったのではないかと推測もできます。説話を語る僧は多くいたのでしょうが、景戒はそういうものを記録しておくことが好きであり漢文の読み書きができたので、説話の記録が後の世まで残ったのです。
 奈良時代の説話というものがどのような形で聴衆に語りかけていたのか、法会などを通してだろうと思われますが、ビデオもDVDのなかった時代の記録は文字だけですからリズムも身振りも伝わっておりません。しかし、想像するにお年寄りが孫に昔話を語るような調子だったのではないかと思われます。
 それがだんだんと節をつけて語られるようになり、身振り手振りのパフォーマンスもはでになり、楽器などを使うようになっていった。それがやがて説経(説教)とよばれるものになっていったものでしょう。
 かるかやのお話の中にあった説経師のこと、善光寺の境内でささらをすりながら語られたという説経節は、中世も後期の頃のお話で、完全に芸能化したものでした。ここに至るまでにもう一段階、僧侶によって語られた説経もあったことを付け加えておかなければなりません。
 どちらも説経で紛らわしいのですが、前者はささら説経とか後には説経浄瑠璃とかいわれるようになり、僧侶の手を離れて完全に芸能のプロである説経師によって語られるようになったものです。それに対して後者の説経は、あくまでも僧侶による宗教行為の一環として行われたもので、場所も寺の内部で行われたものです。この系譜は浄土宗や浄土真宗のを中心に受け継がれ、終戦後まで残っていたということです。この話芸のルーツといってもいいような説経は、一方では仏門を離れ落語、講談、浪花節などといった大衆演芸に育っていったのです。