麟太郎という大先生の門人となり
文久三年から四年にかけての坂本龍馬は、勝海舟のもとで、江戸、大坂、京都、福井、長崎を往来し、勝の人脈につながる幕府の要人たちに会っている。松平春嶽、大久保一翁、横井小楠といった人たちである。龍馬二十九歳から三十歳、得意の時期であった。この時の経験がその後の龍馬の思想や行動に大きく影響していることは確かである。
主に勝海舟と行動を共にすることが多かったのだが、だからといってこの当時の龍馬が海舟と同じ考えを持っていたというわけではないだろう。海舟に出会う数ヶ月前、文久二年の八月に結成された土佐勤王党に龍馬も一員として加わったのだ。
脱藩したとはいえ、土佐藩には多くの仲間がいる。長州藩の久坂玄瑞らとも付き合いがある。このあたりのことをいくつかある龍馬の評伝は詳しくは記さない。海舟の方には日記をはじめ多くの資料があるのだが、龍馬の資料は乏しいのだ。状況証拠として、海舟の日記や大久保一翁、横井小楠と面会したことなどから類推して、単純な尊王攘夷からは脱却しているのだろうという見方をしている。
文久三年五月十日、長州藩が下関沖を通交しているアメリカの商船を攻撃するという事件が起った。このことについて、龍馬は福井藩士村田氏寿と議論したことがあった。「続再夢記事」によれば、長州藩が占領されてしまうのを何とか防がねばならない、そのためには幕府の守旧派を斥けて、開明派により外国と談判すべきと、龍馬は村田に語ったのだという。それに対して村田は、非は長州にある、それを是認する朝廷にも問題があるのではないかと答えた。さらに龍馬は、国のために戦った長州は誉めるべきとも言ったのだという。
村田氏寿は福井藩の重臣である。前藩主の松平慶永は幕閣の中心にいる。脱藩したとはいえ土佐藩士だった龍馬とでは立場が違うのである。このことは幕府軍艦奉行並勝海舟との立場の違いでもあるのだ。
勝海舟といえば、幕臣の中でも比較的自由な発想ができる人物であり、それだからこそ龍馬なども自分の弟子として受け入れることができる度量を持っているのだが、根底のところで幕臣なのである。
勝海舟の弟子になったと、姉乙女に書き送った二ヶ月ばかり過ぎた文久三年五月一七日付のやはり乙女宛の手紙である。「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのよふなものになり候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おおきに海軍をおしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり云々」
勝が将軍家茂より許可を得た神戸海軍操練所の構想を伝える手紙である。さらにひと月ばかり過ぎた六月二九日付の手紙には「私事も、此せつハよほどめをいだし、一大藩(ひとつのををきな大名)よくよく心中を見込てたのみにせられ、今何事かでき候得バ、二三百人斗ハ私し預か候得バ、人数きままにつかひ申候よふ相成、金子などハ少し入よふなれバ、十、廿両の事は誠に心やすくでき申候云々」この一大藩とは福井藩のことである。
この時期、龍馬が関係した人たちはいずれもが幕府の中では開明派といわれて人たちであった。勝海舟の海軍盛大論、大久保一翁の大政奉還論、松平春嶽や横井小楠の公議政体論、彼らの主張を聞く中で、龍馬はそれをどのように受け止め咀嚼していったのか。何も残してくれていないので予測するほかはないのだが、晩年、といってもこれから数年後のことだが、船中八策の中にそれが込められているようである。